| 午後の仕事に取りかかるためにサファイアに戻ってからも、僕はまだ、プールでのあの奇跡のようなひとときの余韻に浸っていた。 だがまだ仕事は残っていた。
椅子に腰かけるとすぐに、「ボス、探していた人が見つかったようだ」 とレオが言った。
探していた人・・・。 レオにファックスを渡された。それは彼だった。
僕は躊躇した。
「午後の仕事を全てキャンセルしろ」 そうレオに指示する前に、いっそ彼の事を忘れられたらと僕は思った。
でもどうしてそう出来なかったのだろう・・・?
東海へのドライブは長い道のりだった。 正確に言えば、21年3ヶ月と11日だ。
会うべきかどうか、またどうして会うべきなのか、自分へ問いかけたが、満足のいく答えは見つからなかった。
ファックスにあった住所に着いた。 中に確かめに行ったレオを僕は車の外で待ったが、シン・ザンヒョクという人は居なかった。
どうやら引っ越したようだ。 そして誰も行き先を知らないらしい。 最後の手がかりは、近くの小さな食堂によく行っていたとい
う情報だけだった。
その店は埠頭の横の、カモメが飛びまわっているところにあった。 僕は車から降り、食堂の中へと入っていった。
いない事を期待した。 そうすればあの人は死んだと自分に言い聞かせることができるからだ。
でも、ドアを開けたら、一人で店の隅に座っている彼の背中からでさえ、僕は彼を思い出した。
女将が僕を熱烈に受け入れた。 「どうぞ、座ってください。 何をお持ちしましょう?」
何でも良いです。 何でも・・・。
女将は僕に店の特別メニューを続けて紹介したようだったが、何も耳に入らなかった。
「・・・何にいたしましょうか?」 彼女はまた聞いた。
何でも良いです・・・。
「お酒を?」
はい。
僕は男の後ろのテーブルについた。 後ろ姿だと彼はいっそう老けて見えた。 みすぼらしい服、猫背・・・どちらかと言うとみじめに見えた。
酒が出てきたので、僕は一緒に飲まないかと男を誘った。
「すみませんが・・・」 長い年月を経て、僕はそんなふうに彼に声をかけた・・・まるで他人のように。
彼は振り返り、まるで他人を見るように僕を見た。
ファックスに写っていた顔と同じだったが、少し老けていた。 何年も前の顔を思い出そうとしたが、僕には思い出せなかった。
「ご一緒しませんか?」 それがこの21年間での初めての会話だった。
彼は手で自分の顔をきれいにぬぐった。 どうやら酒が飲めることが嬉しかったらしい。
女将が料理を持ってきた。 僕は食べる気にならず、彼もただ飲みたいだけだった。
彼はまるで何年も飲んでないかのように、次から次へとカップに酒を注いだ。
「ああ、いい気分だ!長いことつっかえていた喉の汚れが、どっかいっちまった。」
汚れ? つっかえ? どっかに行った?
彼は空のコップを僕の前に置き、おかわりを頼んだ。
僕は彼のコップに更に酒を注ぎいれた。
「お仕事は何を?」 僕は尋ねた。
「ワシか? こんな年で何ができる。 子供の世話になってるだけで・・・」 子供? 嘘つき・・・あなたは嘘つきだ!
「何が子供よ。」 女将が意見した。 「この人は乞食同然よ。」
乞食? 僕の父親は・・・乞食なのか・・・・。
これは仏教で言う業というものか? 子供を見捨てた父親が、それに見合った罰を受けている。
僕はずっとこれを見るのを望んではいたが、実際に見るのはいいものではなかった。
彼は自分の破れたポケットに手を突っ込み、煙草を探した。
僕が自分の煙草を差し出すと、彼はすばやく一本を耳にはさみ、さらにもう一本取って口にくわえた。僕はその煙草に火をつけた。
「お子さんはいらっしゃるんですか?」 自分に子供がいたことを、覚えていますか?
「いいや」 静かだがはっきりとした声で、男は煙と一緒に言葉を吐き出した。
「あんた、何てこと言うの?!いるじゃないの!」 女将がまた話に割って入った。
「もう昔のことさ」 昔話だと男は言った。 「もう済んだことだ」
彼にとっては、きっとそれはもう昔のことなのだろう。
だが僕にとってはそれは過去であると同時に、現在でもあり、未来ですらある。
育てられないのなら、貴方はなぜ僕をこの苦しみの多い世界へと連れてきたんだ? 貴方が過去に犯した罪を、なぜ僕が償
わないといけない?
「女房が死んでから・・・」 そう、覚えている、母は雨の日に逝ったのだった・・・「せがれは外国に留学させたんだ」
外国に留学させた? なぜ貴方は僕に嘘をつき続ける?
「娘さんはどうなさったんですか?」
僕の妹、ドンヒに、貴方は一体何をしたんだ?
男の替わりに、女将が答えた。「この人の頭の中には博打のことしかないのさ。子供の世話なんか、できるもんかね。アメリカ人が捨て子を養子にしたがってると聞いて、この人は喜んで我が子を捨て子に仕立てて養子に出したんだよ」
今でも覚えている。あの日、彼は僕を孤児院に連れて行き、他の子供らと一緒に遊ぶように言ったのだ・・・あとで迎えに来るからと言い残して。
「アメリカに行きゃ、少なくとも食い物に困ることはない。服だってもらえるし、学校にも行かせてもらえる。いいことじゃないか」
いいえ。
他人に世話してもらうのがどんな気分なのか、貴方にわかりますか? 構われれば構われるほど、それが同情からだと思い知る気持ちが?
“可哀想なドンヒョク・・・早くに母親を亡くして・・・可哀想なドンヒョク・・・父親にまで捨てられて・・・可哀想なドンヒョク・・・知らない国で育つなんて・・・可哀想なドンヒョク・・・可哀想な・・・”
僕は、誰の同情も欲しくなどない!
「もう一つだけ、訊かせてください。お子さんに会いたいと思ったことは?」 これが彼にとって最後のチャンスだった。
「会ったって今さらどうなる? もう他所の子になっちまったんだから」
でもそれは貴方の血を分けた子供なんですよ。
彼らのことを考えたりしなかったんですか?
一度でも探そうとしたりはしなかったんですか?
彼らに対して少しも良心の呵責を感じたり、すまないと思ったりはしなかったと?
彼に少しでも後悔しているそぶりがあれば、もしかしたら赦していたかもしれない。だが彼は首を振ってこう言った。
「そういう運命だったんだ。あの子らも、わしもな。覚えていたからって何になる? さあ、こんなつまらん話はもうやめだ」
彼の頭にあるのは酒のことだけだった。
つまらない話・・・? そう、確かにつまらない話です。これが貴方と僕のことでさえなければ。
自分の父親を憎むのがどんな気持ちか、貴方にわかりますか?
学校では、両親を愛しましょうと教えられた___ご両親を敬いましょう。彼らはあなたがたを慈しみ、育ててくれているのです__。
骨の髄まで自分の父親を憎むような、そんな世界を、ではなぜ貴方は僕に教えてくれたのですか?
僕に父親を選べたと?
こんな世界に生まれ落ちることを選べたと?
僕の自由などどこにある?
生まれ落ちたその日から、僕の人生は否応なしに貴方につながっていた。
貴方の息子であることをどんなに喜ぼうが憎もうが、僕に選ぶ余地などないのだ。
そこにはどうしても断ち切ることの出来ない絆があって、僕にはそれを拒むことも、忘れ去ることも許されない。
何をしていようと、どこで誰といようと、それは一生僕についてまわるのだ。
この男にこの苦痛を理解できるのか?
僕のこの苦しみを少しでも感じられるのか?
父親に捨てられた子供の苦しみが、彼にわかるのか?
ナイフで切った傷はしばらくは痛むかもしれないが、やがて傷が癒えれば、痛みもじきに治まる・・・身体の痛みは一過性のものだ。
だが自分の父親を憎まねばならない子供の苦痛はそれとは比べものにならないほどずっと深く、強い痛みを伴う。その傷が癒え、痛みが消えることなど決してない・・・。
「貴方が捨てたその息子さんがその過去ゆえに誰にも心を開けず・・・屈辱と苦痛をずっと隠し続けたまま・・・狂ったように勉強をして仕事で成功しても、ほんのひとときも幸福を感じられなかったとしたら・・・それでも・・・それでも貴方はそれをつまらない話だと言うのですか。そう言えるのですか!」
ここまで自分が感情を抑えていられたのが不思議でならなかった。
突然、彼は煙草をふかすのをやめ、僕を見た。ようやく、彼も、自分の目の前にいるのが誰なのかに気付いたようだった。
涙が溢れそうだったが、この男にそれを見せるわけにはいかなかった。
僕はもう長いこと人前で涙を流したことはない。この男の前でならなおさらだ。
だが急いでここを立ち去らなければ、自分がいつまで涙を抑えていられるか、わからなかった・・・。
「貴方がどんなふうに暮らしているのか見たかった」 僕は静かに言った。 「それだけです。もうお会いすることもないでしょう」
僕は金の入った封筒を彼の前に置き、勘定を済ませ、店を出て車へと向った。
彼は僕を追いかけてきた。僕が本当に自分の息子なのか、自分が捨てた子供なのかを確かめようとして。
僕は車のドアを開け、車を出すようにレオに言った。もうここを出る時間だ。すぐに車を出せ___すぐにだ!
男は車の外で、窓を叩き続けていた。
もしも貴方が僕のことを少しでも気にかけていたのなら、もっと早くに僕の窓を叩くべきだった・・・まだそれが貴方に開いているうちに。だがもう、すべては遅すぎる。
涙が僕の頬を伝っていた。レオは気付いていたはずだが、僕にはもう涙を抑えられなかった。
泣いたのはずいぶん久しぶりのことだ。
貴方が僕を迎えに来ることはないと悟った13歳のあの日から、僕は泣くことをやめた。あの時から、僕には頼るべき人などいないのだと、誰の手も借りないで生きていくのだと自分に言い聞かせてきた。
同情など要らない。欲しいものがあれば、働いて、自分で、自分の力で得るしかない。信じられるのも、頼れるのも、自分だけ。僕には誰も必要ないし、僕を必要とする人もまたいないのだと・・・。
僕は海辺の灯台に立っていた。とても静かで、僕は自分の心の声にゆっくり耳を傾けることができた。涙はもう乾いていた・・・。
僕は21年ぶりに父親と会ったわけだ・・・。
破り捨てる前に、一度だけ父親の写真の入ったファックスを眺めた。このファックスを破り捨てたら、この苦痛も終わりを告げるのだろうか・・・。
ファックスはちぎれて僕の手から離れ、風に散って行った。
だがこの苦しみが終わる日が来るのだろうか・・・ 。
急に、僕はあなたに会いたくなった。あなたの顔が、微笑みが、ぬくもりが、むしょうに恋しくてたまらなかった。
ジニョンさん、あなたはどこにいるのですか?僕は今一人で海に来ています。
あなたは今どこにいるのですか?
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